2009/06/26

真の天才とは?~エフゲニー・プルシェンコを見る その2~



スイマセン m(o´・ω・`o)mペコリン

内容を改定しました。

前回、エントリしたとき、実は少し酔ってまして (;^ω^A

いま読み返してみたら、
けっこう自分の意図とはかけ離れた内容になっていたので、
書き換えることにしました。

でも、大筋は変わっていないかと思うので。


ではでは、早速。

15歳でシニアデビューした世界選手権でいきなり3位。
そして、翌年の国内選手権で優勝など、すでに10代にして
華々しい経歴を重ねてきたプルシェンコですが。

ところで、彼のすごさ―天才性―とはいったいどういうものなのでしょうか。

ヤグディンとの確執のことを書く前に、
彼の才能について少し自分の意見を述べてみたいと思います。


こちらの動画をご覧ください。 ↓↓↓↓↓ 



15歳のときに世界選手権に初出場したプルシェンコのSPの演技です。


すごいですよね~  Σ(o゚д゚oノ)ノ凄ッ!
その1でも書きましたが、とても15歳の少年とは思えない。
すでに『一人前のスケーター』としての風格を備えています。

彼の才能を語る上で重要な要素のひとつが、
この「実年齢をかけ離れた『表現力』」だと思います。

普通どんなに上手なスケーターでも年相応というか、
その年齢に見合った上手さというのがあると思います。

典型的なのは「浅田真央」選手です。




↑の動画は、プルシェンコと同じく15歳でシニアデビューを果たしたGPFのLPです。

非常に上手いとは思うんですが、
「子どもの上手さ」というか、
ある意味非常に天真爛漫な、
周囲のことやプレッシャーなど、そういうものをまったく自覚せずに、
ただ楽しくて仕方がないという雰囲気ですべっています。

この彼女の演技には、
『スケーター』として自分はこの曲をどのように解釈して滑るのか、
どういう風にこの部分の振り付けを表現したらよいかなどと
いうものはまったく見られません。

後にヤグディンがこのときの浅田選手の演技を「子どもの滑り」と評しましたが、
彼の言っていることそのものは間違っていないと思うんです。

要するに「演技・表現」という部分は大きく欠けてはいるけれども、
ジャンプなどの要素自体はきちんと基準を満たしているので、
点数も出るという感じです。

だからこそ、浅田選手は後にこの「演技・表現力」の部分で
かなり苦労を強いられることになるのですが
(もしかしたらいまも苦労しているかも)


ところが、プルシェンコに関してみると
この「表現力」の部分がすごいんですね。
きちんと音楽や振り付けのことを「わかって」滑っている。

「わかって」の部分をあえてカッコで書いたのは、
彼はそのことを「意識して」滑っているわけではないからです。
ほとんど「無意識的に」理解しているんですよね。

彼の演技を見ているとそういう風に感じられることがしばしばあるというか。

ヤグディンの場合と比較してみると、

彼の場合は「アクター」型というか。
音楽の背景や振り付けの意図を自分で調べたり、解釈したりして、
自分なりに咀嚼して滑っているという風に見受けられます。

さすが大学を次席で卒業した知性派というか、
彼のスケートにはそういうものが見られる。

だからこそ、ドラマティックに見えるのですが。


しかし、プルシェンコを見てみると、
とても自分の頭で音楽や振り付けを「解釈して」いるようには見えない。

なので、ともすると、「機械のような」冷たい滑りに見えてしまうのですが。

かといって、何も考えて滑っているわけではないんですよね。

おそらく誰よりも考えて滑っている。

だけれども、その「考える」という部分が
まさにほかのスケーターと違っている部分で、

プルシェンコの場合、ほとんど「無意識的・感覚的」なんです。

たぶん音楽が聞こえれば、どういう風に手足を動かして、
どういうときに演技に緩急をつければよいか
本能的に察知できるんだと思います。

だからこそ、まるで機械のように完璧にプログラムを滑りこなすし、
また、自らの健康を損なっても滑ることができるんです。

実は、プルシェンコという人は非常に不思議な人で、
試合当日になると病気になることが多いんです。

それでも、高熱を出しているとは思えないほどの神演技を時としてみせるのは
いったん音楽が始まれば、本能的に体が反応して、
無意識的に「滑ってしまう」からなんだと思います。

思うに、プルシェンコは「緊張」というものを自覚できないんでしょう。
または、認識できないというか。
だから、それが「高熱」とか「病気」という症状になってあらわれる。


ちなみに天才にはこういう不可思議な病気はよくありうることです。

くしくも、のちに彼がプログラムで演ずることになる
ニジンスキーもそうだったらしいです。
極度の緊張状態になると、「高熱」を出してしまうんだそうです。

何かすごく不思議な共通点ですよね。
天才ゆえの共通点というか。


話が少しそれてしまいましたが、
そういう天性としての「表現力」。
これはすごいものだと思います。

それに、彼は自分が何者なのか「本能的に」わかっている。
自分という存在が、自分のスケートが人を熱狂させることを
わかってるんですよね。

だからこそ、エンターティナーとして類まれなる才能を発揮できるわけで。

しかも、15かそこらですでにそれを「持ってるわけ」ですから。
まさに「天才」といわざるを得ない。


それに加えて、ほとんど要素を失敗しない「安定感」。
そして、柔軟性。

これもプルシェンコの才能を語る上で非常に重要です。

ほとんどジャンプを失敗しない。
おそらく世界でもっとも4回転を成功させているジャンパーはほかにもいますが、
しかし、彼ほどクリーンに4回転を飛べるジャンパーはほとんどいないかと。
しかも単発ではなく、4-3-2や4-3-3などのコンビネーションを軽々と成功させている。
なんでも練習のレベルでは4-4も飛べていたそうですから、
この技術の高さ、確かさも彼の天才性をさらに高めているものといえるでしょう。


こちらはプルシェンコの練習時の動画です。
ニコ動なので、動画を直接引っ張ってこられないのですが。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm4540630

本当にこの動画を見ただけでも、
もうすでにほかの選手と数段上のレベルのことをしているのがよく分かるかと。


そして、すでにお分かりかと思いますが、
プルシェンコは男子ではめずらしいビールマンスピンができる選手です。
女子にしか持ち得ない柔軟性をも持っている。

男子のスケーターというのは「豪快さ」が売りですが、
女子のような「繊細さ」は持っていない。

なので、「技術」という部分では見ごたえがありますが、
「芸術」という点では女子には劣るのかと。

しかし、プルシェンコの女子にも匹敵する柔軟性は、
彼を時として非常に両性具有的に見せるというか。
「技術」と「芸術」の両方を見せることができる。

女性的な優美さ・やわらかさを表現できるというのは、
スケーターとしては非常に有利なことではないでしょうか。


フィギュアスケーターというのは大抵どちらかなんですよね。
技術はすごいけど、表現力は劣るとか。
必ずどちらか一方なにかが劣っている。

しかし、ことプルシェンコに関しては
どちらとも非常に優れているんですね。
だからこそ評価もすごく高いんだと思います。


そして、またプルシェンコのすごいところは
「神童」のまま終わらなかったことです。
きちんと「大人」になっても、「天才」のままでい続けている。

普通こういう子どものときに才能を発揮しすぎてしまうと、
大人になってから何らかの要因・事情で
失われていくということがあるのですが、
プルシェンコの場合は、体型の変化によるジャンプの劣化もないし、
心理的なスランプもほとんど見られない。


この圧倒的な演技力と技術の確実性。
この二つが、プルシェンコを天才たらしめている要素かと思います。


そういう点から考えると、
浅田選手はまだまだ弱いかな、と。
ジャンプの技術もいまいち安定していないし、
表現力は高いといっても、
プルシェンコのような「魅せる」という部分では欠けている。

自分が何者で、自分にどういうものが合うのかと
いうことがあまりわかっていないから、
どうしてもいわれたまま、教えられたまま
「演じて」しまうことが多いんですよね。

流してしまうというのかね。

もう少し振り付けの意味を理解できるようになればいいのですが。

持っているものは大きいんですが、
その能力を発揮できずにいるところがもどかしいですよね。


プルシェンコが「完成された天才」なら
浅田選手は「未完成の天才」なんだと思います。
または「天才少女」といってもいいのかな。

「天才少女」は才能が衰えるのも早いです。
大人になるのと同時に一気に才能が衰える。
タラ・リピンスキーみたいな感じですよね。
10代で終わっちゃうみたいな。

浅田選手はいま「天才」に化けるか
「天才少女」で終わるかの瀬戸際にいると思います。
本当にここで頑張らなければ、
この先、一生キム・ヨナには勝てないでしょうね。
それどころか、ほかの選手にも勝てなくなるかもしれない。

どうして二人のあいだにこれほどの差が出るのか。
たぶん性差というのも大いに関係があるかと思います。
男子の場合、年をとればとるほどジャンプが安定してくるのに対して、
女子は劣化しますから、男女の肉体の差はいかんともしがたい。

ですが、やはり浅田選手を見るたびにもどかしく思うことも確かなんですよね。
どうしてプルシェンコのようにはなれないのかと。

そして、ますますプルシェンコの非凡さを思い知らされるわけです。
彼は、まさにタラソワのいうとおり、「百年にいちどの逸材」なのだと。